Scenes of New Habitations

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住むの風景

2022年10月5日 気仙沼・大槌・陸前高田

柴原聡子

気仙沼

気仙沼から出発。市街地を少し歩いてみる。震災から3ヵ月ほど経った時、初めて訪れたのが気仙沼だった。水産加工の工場も多く、火災もひどかった。駅や周辺の商店街は1階浸水だった場所もあり、古い街並みも幾ばくかは残っている。一方、泊った宿の辺りは一律かさ上げしていると聞いた。海沿いの工場地帯と住宅が混じっているので、私が住んでいる川崎・鶴見付近の京浜工業地帯に少し風景が似ている。商店街にはレトロな喫茶店などもあり、なんとなく落ち着く。同じ通りを進んでいくと、ある時点で建物が一新されるので、そこが被災の境界線だったのかな、とみんなで話す。

大槌町

陸前高田へ向かい、瀬尾さんの友人のOさんに会う。Oさんの車で大槌町へ。6月にも来たわけだが、改めて見ても家の建ち方が不思議。敷地いっぱいに建てて隣の家と密接している部分があるかと思えば、広い空き地にポツンと建っているものもある(ただ、妙に目立つその家は売家になっていた)。
公民館の隣に御池という小さな池があり、その周辺だけかさ上げ前の高さが保たれている。前回来た時は夕方だったので、学校帰りの子どもがたくさん遊んでいて、和む光景だった。その話を小野さんにすると、「陸前高田も明らかに人が減ったし、とにかく子どもが少ないのがね。やっぱり子どもの声がたくさん聞こえると元気が出るし」と言う。データとして減っているのは事実だが、それよりも肌で感じるらしい。地方はどこも高齢化や限界集落の問題に直面している。震災がそれを加速させた部分もあるだろう。「人が減る」ことを日々の生活で実感するのは、なかなかヘビーなはずだ。私が拠点とする東京都心は、子どもが遊ぶ公園もあるけれど、それを認識する以前に人が多いので、子どもがいるから生き生きするという感覚を抱くことは少ない。その「子ども」も、国内ではここ数年で東京および近郊に集中しつつあると、何かのデータで見たことがある。

2022年10月5日 気仙沼・大槌・陸前高田

旧大槌町役場の跡地

公民館から堤防もそう遠くはないので歩いていくと、大きな空き地が現れた。先ほどの御池と同じくらい低い土地だ。一面に芝生(クローバー?)が生えていて、真ん中らへんにポツンとお地蔵さんが建っている。近づいてみると、そこは大槌町役場があった場所だった。大槌町では被災した庁舎を遺構として残すかどうか、住民の間で大きな議論になり、2019年に撤去されたという。例えば、陸前高田にある震災遺構は海に近いところに集中している。高田は海から約1㎞の範囲が居住禁止になったため、現在の中心部からはかなり離れた場所に位置している。一方、この旧役場は今も人がよく訪れる公民館の隣だから、残す残さないで意見が割れることは想像できる。新聞記事等で知る限り、敷地だけを残した現状では記憶の風化が進んでしまうという指摘があり、今後の利活用が課題になっているようだ。それでも、私はこういった残し方も、ひとつの可能性ではないかと思った。史跡と言うと、古代の遺跡とか城址のような古いもののイメージがあるけれど、たった10年前のものがこうやって残されるのはむしろ新鮮だ。

陸前高田

釜石を通りつつ陸前高田へ。車中でOさんが色々教えてくれる。最近は明治津波や昭和津波といった過去に東北が被災した津波のことも調べていて、被災後の対応が東日本大震災と似ていると感じる部分も多いのだそう。ほとんどの住民が亡くなってしまった村の存続のために、近隣の村から遠い親戚を大量に連れてきたとか、中には「高台に移転せずここに住み続けます」という内容の約束をさせられた例もあるらしい。

陸前高田に着き、かさ上げ地ともとの高さの土地の境目あたりを歩く。海につながる細い川沿いは遊歩道になっていて気持ちが良い。散歩する人や学校帰りの学生も通っている。震災の翌年から数年間、陸前高田に住んでいた瀬尾さんが、新しい街が街らしくなってきたと話す。何もなくなってしまった場所に一から線を引いて計画するのは大変なことだ。それでも、人々がそこを使うことで、徐々に定着していく。市内で最初にできた災害復興住宅の屋上から、街を眺める。夕日に染まった空は広く、地上もまた、空地が多くて広い。これからどんなふうに定着が進んでいくのだろう。人が減っていく現実と共にある「まちらしさ」について考える。