Scenes of New Habitations

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住むの風景

2022年6⽉11⽇ 岩⼿県陸前⾼⽥市

早稲田大学 小林恵吾研究室, 小林恵吾

2022年6⽉11⽇ 岩⼿県陸前⾼⽥市

東日本大震災前に家があった場所を案内する小野さん

2台の⾞を⾛らせ、陸前高田市在住で、瀬尾さんたちの作品制作にも協力している小野さんに陸前⾼⽥市の全景を⾒せていただいた。道路整備や集団移転などの震災後の現在進⾏形の取り組みと、気仙町と⾼⽥町の合併や⽣業などの歴史的背景を重ね合わせながらお話をしてくださった。

過去に幾度どなく襲った津波が、この町の転換期。3.11の津波による大被害が注目を浴びているが、チリ地震などの過去の災害事例を振り返ると、伝承がうまくいかなかった歴史が浮かび上がってくるという。津波の被害を受ける恐れのある地域への国道の動線計画や中心市街地の移転が実行された背景には、昔の人によるまちづくりの言い伝えが生かされていない部分もあるのだろう。
3.11の復興過程においては、気仙町と高田町の間での中心地をめぐる議論もあった。古くは違う町として復興を重ねてきた故に、それぞれ復興への考え方がありプロセスのズレが顕在化してしまったのかもしれない。どちらも土地への愛があるからこそ起こったことである。

その後、道の駅⾼⽥松原およびJR陸前高田駅近くにある慰霊碑を訪れ、それぞれの設立の背景にあった住民のお気持ちなどミクロなお話も伺った。観光で訪れる人の多い道の駅高田松原よりも、地元住民は震災以降の米沢商会が見える慰霊碑を3月11日には訪れる。米沢商会は、現在旧市街地の位置を示す唯一の場所である。この場所を残すために住民と行政がぶつかった過去も含めて、地元住民にとっての3.11の象徴となっている。
今後も復興を重ねていくこの地における多様な⼈の⼼境を聞くことができ、現地に⾜を運ぶことでした得られない感覚に駆られた。

その後、産直はまなすにお伺いし、御年90歳になる吉⽥さんにインタビューをした。吉田さんの娘さんも一緒に私たちを迎え入れてくださり、3時間にも渡る貴重なお時間をいただいた。吉田さんは1970年代に広田湾の埋め立てが問題になった際、住民側の代表となった漁業組合で中心的に活動をされてきた方である。この運動は、漁業従事者を中心に住民反対運動が広まり、十数年にもわたる活動を経て、埋め立て計画を白紙にしたというもので、この地域では有名な話だ。その後も町の中心に立って他の反対運動にも参加するなど、地域を守る活動に精力的に活動されてきた。
吉田さんのお話から見えてきたのは、反対運動と生業の関係性だ。広田湾の埋め立て問題に対する反対運動の背景には漁業の話が切り離せない。広田湾の広域を埋め立て、石油コンビナートとして運用するという計画は、裏返せばその海で行われていた漁業が失われるということだ。自分たちの生業が失われるという共通の悲しみ・焦りに対し住民は強く結束し、反対の声を上げることが出来たのだ。この反対運動には、唐桑や気仙沼の人も参加したとのことであった。海を舞台にした生業によるネットワークは陸よりも広い範囲を繋いでおり、そこには目に見えない繋がりが発生していたのがうかがえる。
このような市民運動は現在の陸前高田では起きにくくなっていると吉田さんは言う。埋め立て問題をきっかけに、新しいものに対して住民の意識は慎重になった。しかしその後、今まで行政に対し反対運動をしていた人たちが行政の中心に立った。これにより箱物行政へと移行してしまい、住民は市民運動へと動きにくくなってしまったのかもしれない。

この町に限らず、生業の場が失われることはその土地においてどんなに悲しいことなのだろうか。時代が進むにつれて、人は土地に固有して働く農業・漁業から離れ、土地に関係を持たない働き方が主流となった。震災により、会社などの勤め先も一度流された。しかし、自分の働き場所・生活を新たに獲得することが出来れば他のことに対しては他人事という感覚になってしまうのかもしれない。一度生業で繋がった町は、生業の変化により繋がりが薄くなってきているのだ。3.11でよりこの関係は明白になった。この問題を今後の震災復興の中で最優先事項として中心に捉える必要があるのだろう。

吉田さんは反対運動の話だけでなく、幼少期に経験した戦争の話もしてくださった。戦後70年が経過し、その時代を生きていた人の経験を直接聞くことが難しくなってきた今、非常に貴重な時間であった。陸前高田における反対運動を経験した人も同じように少なくなっていく。町の大事な歴史を後世に残していくために今回の記録は大切なものとなった。

はまなすを後にした後、再び⼩野さんにインタビュー。聳え⽴つ堤防を下からと上から眺め、陸と海の境界に⽴つ巨⼤な壁の迫⼒を肌で感じた。
また、震災後の避難経路や高台の位置関係なども⾒せていただき、市の防災体制のリアルを知ることもできた。明治三陸地震、昭和三陸自身、チリ地震の津波高が記されており、この美しい町を飲み込んでいった自然の恐ろしさを体感した。