Scenes of New Habitations

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住むの風景

2022年3月3日 丸森町

柴原聡子

2022年3月3日 丸森町

Hさんのお宅から見える自主移転先の様子

昨晩、瀬尾さんや彼女の友人たちとのごはんの席は、ウクライナの話題でもちきりだった。朝になり、刻々と変わる不穏な情勢を見つつ、車で仙台から丸森へ向かう。
まず今年のリサーチ拠点となる不動尊クラインガルデンを下見。事務局の方に親切に対応いただき、空いている部屋も見せてもらった。すぐそばのキャンプ場は、今もなお護岸工事の真っ最中だ。2019年の台風では一棟も被災しなかったが、敷地のごく一部はハザードマップにかかっている。

午後は、瀬尾さんたちが以前から交流している90歳を超えるHさんのお宅へ。Hさんがお住まいだった五福谷地区は、台風の時に川の上流から大量の水とともに土砂や巨石が流れ込み、大きな被害を受けた。家を失った方も多く、被災直後、避難所で集団移転を検討し始める。そして、たくさんの紆余曲折を経て、もとの場所から徒歩5分ほどの土地に自力集団移転をされた。昨年12月に新居が完成し、現在はもとのご近所さんを中心に約8世帯が暮らしている(この一帯を地区ではなく団地と呼んでいるのが印象的)。自力で集団移転するのは本当に大変なプロセスがあったと想像する。ただ、知り合い同士で徒歩圏内に住むことの安心は、すごく大きいのだろうとも感じた。この移転をけん引したSさんは新居に引っ越すまで仮設住宅にいたが、お隣さんとは挨拶をするくらいの関係だったという。災害復興住宅ななど集住型の移転先で交流が生まれにくいことは、各地でよく言われる。隣人との距離は近くても、自分で場所やご近所を選べないもどかしさがあるかもしれない。以前からの縁、自分で選ぶこと、物理的な距離の問題。色々な要素が絡み合っている。

2022年3月3日 丸森町

岩手・宮城内陸地震(2008年) 駒ノ湯温泉の崩壊地全景 ©国交省 国土技術政策総合研究所

Hさんのお宅に地域の方が数名いらして、みんなでお茶をする。昨年、小森はるか+瀬尾夏美として東京都写真美術館で発表した映像に出ている方々だ。映像は、2019年の台風に呼称をつけるというテーマのもと話し合うもので、「じゃくぬけ」(蛇が抜けるの意味)という名前になった。それもあって、Kさんが11㎞に及ぶ蛇行した土砂崩れが起きた2008年の岩手・宮城内陸地震の資料を持ってきてくれた。瀬尾さんが昨年描いた「じゃくぬけ」の絵にそっくりの写真もある。このときは地震の揺れ(マグニチュード7.2(暫定値)、最大震度6強)が原因。東京ドーム36個分の土砂が流れたそうだ。麓にあった民宿が大きな被害を受け、亡くなった方もいた。

Hさんが、昔の丸森の話をしてくれる。林業に携わっていた頃のお話が興味深い。当時の林業は切った木を運ぶ道を作るところから始まり、数人がかりで木を伐り倒して下ろす、とてつもなく手間と力のいる仕事だったのだそうだ。危険な作業も多いから報酬も良かった。それがチェーンソーを使うようになり効率化が図られ、伴って賃金も下がってしまい、70年代の安価な輸入材の激増がとどめを刺す形で国内の林業は廃れた。これは丸森に限らず全国で起きたことだ。近年輸入材が高騰するウッドショックが起き、急に国産材を使おう!という流れも生まれているようだが、山自体の体力など、失われたものは大きい。こういった話を聞くと、特に戦後の生業の変化が生活に与えた影響の大きさを思わされる。極端な生活様式の変更が、住む場所や暮らし方、集落の風景の大部分を変えてきた。

ひなまつりということで、桜餅や桜の葉の塩漬けが練り込まれた自家製パンをいただいた。どれもおいしい。
気がついたら、とっくに日が暮れていた。