20220310
2022年1月27日 木曜日
思えば去年はほとんど1年をかけて、「祝宴」と題した約200枚分の中篇小説を書くことに費やしていた。ディアスポラのアーティスト、フィオナ・タン「エリプシス」に触発されて、書き始めた作品である。エピグロフには、タンの以下の言葉を引用した。
「30年後も憶えているであろうことを思い浮かべる。30年後に思い浮かべるであろうことを憶えている」。
憶えていなければ、思い浮かべることはできない。
思い浮かぶのは、それを憶えているからだ。あるいは、思い浮かんだときに、それを忘れていないことを思い出すのかもしれない。
フィオナ・タンには、《興味深い時代を生きますように/May You Live In Interesting Times》と題された映像作品があるそうだ(残念ながら私はそれをまだ見たことはない)。
興味深い時代。
興味深い時間。
かつての私が思っていた、今の私がすっかり忘れていることを、いつかの私が何かの弾みにまた思い出すのだとしたら、こんなに興味深いことはない。
たぶん私は、今の私が思う以上に、興味深い時代を生きている。
さて、「住むの風景」三回目のリサーチだ。
去年の暮れに、東京エアシティターミナルを訪れたときに確信したのは、「過去を砂糖漬けにし美化するにすぎない」(細川周平)”悪しきノスタルジー”への、私自身の激しい抵抗感だった。それは、「初めてなのに、懐かしい」「郷愁をそそる」「古き良き日本」といったキャッチコピーによって宣伝されるような観光地にこぞって訪れ、「懐かしい風景」として売り出された「商品」を喜んで消費する人々への軽蔑も混じっているのだろう。
その点、空港に行き来する旅行客にとっての「通過地点」として、リムジンバスの発着所である「東京エアシティターミナル」はそっけないほど、「商品」としては色気のない場所だったように思う。そして、「乗りかえられる 通りぬけられる 通りすぎられる」しかないその場所でこそ、られる、を乗せたケイタニーさんの旋律は生まれ、その歌に導かれて私も、ハコザキ、というテキストを書かずにはいられなくなったのだ。
ハコザキ、で興味深い時間を満喫した1日の終わりに私たち一行は、ほとんど直感的に次の行き先は横浜の、それも元町の外国人墓地にしようと決めていた。
考えてみれば私は二十代前半の頃からずっと、あなたの母国はどちらのことなのか? とか、あなたの故郷はどこなの? といった類の質問に出くわすたびに、そういう質問をされてしまう自分の境遇を意識させられた。だからこそ、の垂れ死んだところが本当のふるさと、とのびやかに歌い上げる甲本ヒロトの声に涙ぐんだこともあった。生まれた場所、ではなく、死んだ場所、が、故郷、でもいいのかと。その歌のタイトルが「ナビゲーター」であるのもまた今以上に神経質で何かと救いが必要だった二十代半ばの私の「魂」に響いたのだった。甲本ヒロトの歌声は実際に宗教的だった。その声が私を励ましたのだ。ナビゲーターは魂だ。魂に従えば、正直でいられるはずだと当時も思ったし、今も思っている。
もちろん、の垂れ死ぬ、は、極端だ。
先のことはわからない。死ぬ時のことなど全然想像したくはない。けれども、そういう考え方があってもいいのかと(全く同じ時期に聴き込んだザ・イエローモンキーの「JAM」もまた、示唆的だった。「乗客の中に日本人はいませんでした」。仮に、その飛行機に自分が乗っていたとしても、あの歌の歌詞はあのままなのだろう)。
死ぬことをそうしょっちゅう考えているわけではない。むしろ、どのように生き延びるべきかということばかりを私は考えているつもりだ。
真冬の元町で、瀟洒なマンションが続くあの緩やかな坂道を登って外国人墓地の入り口にたどり着き、英文で綴られた案内文の中に「memento mori」という言葉が混じるのを見つけた時、ペリーの時代に遥かなる日本にやってきて、‘客死’した「外国人」たちの故郷は、一体、どこのことなのだろうと思わないではいられなかった。同時に、日本を遠く離れて、海の彼方で生涯を終えた在外日本人たちの故郷も。
国を跨ぐと思えば、特殊に響くかもしれない。
けれどもこの日本国内でも、生まれた土地で、ずっとそのまま、その生涯を穏やかに生き切る人は、今や希少だろう。ひょっとしたら今後の百年も視野に入れたなら、「日本人」もまた、さまざまな理由で、他国に「移民」せざるを得ない状況が、珍しくないことになるかもしれない。いや、わからない。けれども、想像はしておきたい。
外国人墓地が一般公開されるようになった1986年、元町の坂道の上にブリキのおもちゃの店とクリスマスハウスもオープンした。年季の入ったサンタクロースの人形たちが迎えてくれる、おとぎ話めいた一軒家。入口の扉には「クリスマスまであと333日」とチョークの文字で描いてある。333。ゾロ目に勝手な縁起の良さを感じる。ここに来ればクリスマスの355日前であろうとも、クリスマスが味わえる。エルジェのタンタンの人形や、オズの魔法使いに出てくる心を欲しがる男を思わせるブリキのトナカイなど、骨董具ばりの高値のオモチャたちにしばし酔いしれながら、子どもの頃にこんなところに連れてきてもらったのなら、本当に夢の中に迷い込んだ心地になっただろうと想像した。
日本で’客死’した人々が埋葬された墓地のすぐそばに、遥かなる彼らの国々に憧れる私たちの無意識を心地よくくすぐるこんなお店があることの、甘美な罪深さときたら。
海があって、丘があって、中華街があって、墓地があって……横浜はやっぱりおもしろい。
それから私たちは本牧埠頭へと向かった。
気軽に立ち寄るには少々アクセスの悪いその場所には、横浜港に出入りする船への信号所および市民の展望施設として建設された「塔」がある。
この「塔」の存在を知ったのは、偶然だった。去年の暮れ、小説を書きながら上海の電波塔「東方明珠」について調べていたら、見ず知らずの人のブログに流れ着き、その人が広々とした芝生から「横浜港シンボルタワー」を見上げた写真をアップしていた。芝生と、空の青さと、どちらかといえば愛嬌を感じさせるもったりとした白い塔になんとなく心惹かれたのだった。
この「塔」に向かう道程、海に面したコンテナヤードの一角に、勿体ぶったような石積みのオブジェらしき何かが二基、佇んでいる。「遥かなるもの・横浜「花壇」」という文字が刻まれてる案内碑を見て、ようやく「花壇」なのだと判明する。花壇の中の花は豪快に枯れていた。冬だから仕方ないのだろうか?
その後、30分ほどの時間をかけて、踏んでみたかった芝生を超えて、いよいよ「塔」の麓に。「貝」のかたちを模した「タテ・ヨコともに6メートル、重さ15トンのステンレス製の鋳造彫刻」が入り口にすえてある。どうやらこれ、先ほどの「花壇」と対をなすものらしい。資料によれば「昭和60年」の作品。作者の名前もはっきり刻んである。西暦でいえば1985年。私たちがほんの子どもの頃のことだ。月日は流れ、「遥かなる」という、少々、仰々しい響きの可笑しみに、今は四十代の私たちが笑っている。エレベーターらしきものが見当たらないので、約50メートルの塔の中の螺旋状の階段を登って、展望台にたどり着く頃には息が切れてしまった(ギターを抱えて同じことをしなければならないケイタニーさんは大変だ)。晴れた空は冴えわたっていて、海も青々と眩く、船も、街もよく見えて、最高の見晴らしだった。無料の望遠鏡や、きっと開業当時の約35年前から置かれっぱなしと想像させる椅子も味があった。
塔を降りたあとは、スコンと抜けるように青い空を背景に、ほとんど人気のない通路で、ハコザキ、の演奏と朗読を録音・撮影する。太陽が照らす、と歌うケイタニーさんの声が柔らかく心をさする。
興味深い場所。
興味深い時間。
沈みつつある白い光に包まれながら、生きることと、生き延びるために考えることを、重ねあうようなこんな時間を、これからも生きたいと思っていた。