Scenes of New Habitations

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住むの風景

私を忘れて欲しい

朝岡英輔

私を忘れて欲しい

© Eisuke Asaoka

1.本牧

運転手の方の話を聞きながら、タクシーで本牧ふ頭に向かう。港湾カレッジに差し掛かると彼は目をやり「彼女がいませんね」と呟いた。C,D突堤に差し掛かったあたりで「このあたりは昔から車が混んでシデェもんです。今は南本牧ふ頭がメインですがね」。

掛詞(≒駄洒落)は知性だ、という黒田硫黄の漫画「大日本天狗党絵詞」に出てくるセリフが頭に浮かぶ。海の彼方から飛来した巨石にICI(フランス語で此処の意)と書いてあるのを見てこれは意思表示だと言う。三界に家なく自在に飛行し、人から見れば人でなくなった者(天狗)たちがその石を投げた大天狗の元へと向かう。コンクリートで固められた太平洋の孤島へと…。そんなシーンを思い出す。もっとも彼は大天狗ではないだろうし私たちも天狗ではなくここは横浜だ。

本牧ふ頭は1960年代に作られ未だ成長しているらしい。過去にはくし形の突堤の一部が埋められたり、2022年現在はD突堤が横に伸びる計画が進んでいる。海沿いでタクシーを降りD突堤の先端にある横浜シンボルタワーへ歩いていくと、花壇の形をしたパブリック・アートに出会う。この花壇は数年前にも台風で被災して真新しい護岸壁と一緒に修復されたばかりだが、工事計画の地図を見るとどうも今後撤去されてしまうのではないかという位置にある。背の伸びた護岸壁に遮られ海の見えなくなった花壇には知らない花が冬枯れしていた。

わたしの家にはキャラクターグッズが種々あり、なんとなく捨てられず溜まっている。東京では例えばコンビニに行って見回すだけで、そこら中に顔がある。何でもキャラクター化してしまう事で商品に情を湧かせようという作戦でそれにわたしはまんまと乗っているわけだけど、そんな風に顔らしきもののついた無生物に感情移入しつつ、パックの豚肉やらソーセージやら顔の(見え)ない生物にはたいそう無感動に接しているから、人間の顔面パターン認知力の強さに振り回されているなぁと思う。
D突堤の花壇には顔こそないものの名前がついていて(田辺光彰作『遥かなるもの・横浜(花壇)』)、それだけでも擬人化には十分だった。1987年頃の作品だから、35歳になる。すでに亡くなっている作家の想いなど考えるとどこかに移転して欲しい気もするし、どうでもいいような気もするし、よくわからない気持ちになる。運命、という大仰な言葉を使いたくなる。

私を忘れて欲しい

© Eisuke Asaoka

この花壇には対になる貝のモニュメントがあり、横浜シンボルタワーにある。こちらは巨大な金属製で、人為的に破壊されない限りは千年先でも輝き続けそうな強固な駆体をしている。世の作家が作品に込める願いの一つが永続だとすれば、この貝の方はなかなか良い線をいっているのかもしれない。

2.元町

本牧ふ頭の前には、元町の外国人墓地を訪れた。

7年前にも一度小島ケイタニーラブ氏たちと来た。その時は門が開放されていて敷地内を歩くと海が見える小高い丘の上にいろいろな形の墓石たちが並んでおり、その一つの本を広げた形のものに鮮やかな花が生けてあった。今日、柵の外から同じお墓を見つけると、やはり花が生けてある。絶やさないように日々足を運んでいる人がいるんだろう。周囲にアルファベットの表札が多い事を考えると、近所に住んでいるのかもしれない。死者を日常の中で悼むのなら家とお墓が近いのは良い事かもしれないなと思う。
お寺などの墓地だとお化けが出るとか陰気なイメージが付き纏うが、この外国人墓地で感じたのは「優しさ」だった。
私の祖先の墓のひとつは都内から一時間以上かかる山中の盆地にあって、その近くに親戚は住んでいないし私も数年に一度しか訪れない。嫌いな場所ではないがあまり「優しさ」という感触を覚えたことはない。

私を忘れて欲しい

© Eisuke Asaoka

所謂お寺の墓地に行くと墓石の大小や遠景に見える建物の大小で、生前のみならず死後も富の大きさで区別される気がして、もうみんな共通のお墓にしてくれよと思う事がある。『新世紀エヴァンゲリオン』に出てくる黒い棒に名前が書いてあるだけのお墓のような。もしくは、ひとつだけ建てた永代供養塔の中に地の底に通じる穴を開けておいて、そこに遺骨を放り込んでみんなでさようなら、でも良いかもしれない。

平和のための彫像などで、その形が賛否を呼び問題になる事があるようだ。作家個人の人格や想いがどんなに優しいものであれ、形からそれが伝わらなければ誤解(?)されてしまう。そういう時だって、意味を持たない形にすれば良いだけかもしれないのに、どうして無理にアートにしようとしてしまうのだろう。
個人の形が強く残るという事、それが公共の場に置かれるという点で、特に彫刻的なパブリック・アートには暴力性が生まれてしまう気がする。

長崎の朝鮮人慰霊塔の話を思い出す。戦後、原爆や炭鉱で犠牲になった方々の遺骨がお墓に入れず祖国にも帰れず保管された。近年になって確認したところ、保管されていた壺の文字がかすれてしまい17名中名前が読めたのは4名だけだったという。(参考:金セッピョル・地主麻衣子編著『葬いとカメラ』)
既に名前の消えてしまった人々と、千年後の貝のモニュメント。作品を作るという事は、きっと忘れて欲しくないという欲望を孕んでいる。でも、果たして本当に忘れて欲しくないのだろうか? 自分のいなくなった世界で、自分の作ったオブジェだけが生きていくというのは、果たしてどれくらいの意味があるのだろう? わたしは自分が曾祖父母の名前すら知らない事に気付く。

丘を降りて、豚まんを食べに中華街へ向かった。中華街の門が見える高架下の前の川で、水面に昼の光がきれいで写真に撮る。シルバーのリアカーらしきものを引いている若者たちがいて、PERIDOTS「リアカー」という曲を思い出す。100年経ったらまたここで笑って会おうよ、という歌を頭の中で口ずさんだ。