Scenes of New Habitations

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住むの風景

2021年9月8日 水曜日

温又柔

2021年9月8日 水曜日

© Eisuke Asaoka

「住むの風景」のプロジェクトの一環として、モノレール沿線上の、以前から気になっていた整備場駅で下車してみる。
一般の乗降客はほとんどいないらしい。
あとで知ったのだけれど駅じたいがもう空港の敷地内にあるとのこと。
プレハブのような無人の駅舎を出て、曇り空の下、海上保安庁をはじめ整備関係会社の持ち物と思われるビルの間を行く。行ってみたかった創業40年の喫茶店「ブルーコーナー」は残念ながら閉店中。
草がコンクリートの隙間から無造作に生えている。整備士らしき服装をきた人を数人見かけるぐらいで、ほとんど人気がない。
灰色と白だらけの風景。その分、むくげらしい花や名のわからない草草の緑が目に潤う。
シャッターの降りたビルを裏側からのぞくと、ヘリコプターが目前に。格納庫らしい。整備場駅という名のだから考えてみればあたりまえなのだけれど、町中を散策中にヘリコプターを見かけることは滅多にないことなので、さすがに興奮をおぼえる。
(もう一駅、試しに降りた新整備場駅は、さらに何もなかった。コンビニでは空港や飛行機をモチーフとしたグッズがたっぷり売られてて、まだ飛行機に乗ったことのない飛行機好きの甥っ子に買ってやりたくなったが、本音はやっぱり自分が欲しいのだ。甥っ子は今3歳8か月。父が東京に赴任し、母と私を台湾から呼び寄せた頃の私とちょうど同じぐらい)。

2021年9月8日 水曜日

© Eisuke Asaoka

羽田空港国際線ビル駅、天空橋駅、整備場駅、昭和島駅、流通センター駅、大井競馬場前駅……モノレールに揺られると、奇妙にかきたてられる。そのことを自覚したのは、いつだったろう。
二十代半ばの頃か。たぶん、自分一人でモノレールに乗るような年ごろになってからだ。
父や母の保護のもと、自分の意思とはほぼ関係なく台湾と日本を行き来していた「幼年時代」が遠ざかり、空港を利用するとしたら旅行や留学や出張といった、何らかの目的を持って出かけるようになってから私は、モノレールに揺られながら車窓の向うに広がり、過ぎ去ってゆく景色を見るたび、旅に出る高揚感だけでなく郷愁にも似た特別な感慨を抱くようになった。
でも、はっきりとそれを自覚したのは、作家になってからかもしれない。台湾籍を持ち、日本語で書くあなたにとって母国は? 故郷は? 日本と台湾のどちらなのか? そのように訊かれる機会が一気に増えてからだ。
「母国」や「故郷」が、ノスタルジーを煽る風景と密接な場所であるのだとしたら、私にとってのそれは、日本でも台湾でもなく、その中間地帯。日本(東京)から台湾(台北)に向かうときと、台湾(台北)から日本(東京)に戻るときに否応なく通過する場所である 「空港」のことかもしれないと思うようになったのだ。
でももっと厳密には空港にはとどまらないかもしれない。空港を含む移動中に見た一連の景色こそが、私の「原風景」なのかもしれない。

2021年9月8日 水曜日

© Eisuke Asaoka

きょうも、モノレールの旧車両?のレールの真上の席に座り、右と左、両側に広がる眺めを意識しながら考えていた。
私にとってのこの風景は、祖父母や親戚らの家があった台北の路地と繋がっている。日本と台湾の境目は、私の記憶の中のある地点から突然曖昧になる。ある時期までの私は、「国境」など、意識したことなかった。
空港、出国審査、飛行機の機内。また空港。入国審査。機体の内部で数時間過ごしたあと、再び陸に降り立つと、耳に触れるざわめきの質が一変する。
言葉。
そこが日本か、日本でないかを判断するとき、私の五感のうちで最も敏感になったのは聴覚だ。中国語、台湾語。モノレールの車窓の向うで遠ざかってゆく景色は、幼い私にとって、日本語以外の言語がざわめく空間と直結していた。
移動の記憶と結びついた光景なので、モノレールに揺られるたび私は、奇妙に荒々しい郷愁を抱くのだろうか?
私の「住む」を包み込んでいた風景には動きがある? いや、まだよくはわからない。ただ、静かな興奮は続く。すでにあまねく流通している「物語」や、消費活動ではうまく回収できない、まだ名付けえぬ何か。それをいつも求めている。
1980年代に幼年期を送った私(たち)の東京の記憶は、今、どんなふうに記録されるべきなのか。そのことを思っていると、いつもの問いがまた浮上する。
記憶を書くとは?
私が、私の記憶を何度でも書きたがるこの衝動はどこからくるのか?