Scenes of New Habitations

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住むの風景

同じスピードに惹かれている

朝岡英輔

東京湾の埋立地は、歩きたくなる土地だ。無機質で、車通りの割りに歩いている人がなく(そもそも住宅地がほとんどない)、割れたコンクリートから草が茫々と生えている。00年代には大井埠頭、平和島、城南島あたりをよく歩き回って写真を撮っていた。

今回、温さんたちと東京モノレールに乗って沿線を散策した。普段地面ばかり歩いているので、高いところを走るモノレールには心が踊る。整備場駅は、モノレール以外では行きづらい場所で、歩くのは初めてだった。60年代の東京オリンピックの頃に作られたまま時が止まったような場所で(と言っても勿論、毎日仕事で利用している方々はいらっしゃるわけだけど)肌に馴染む空気だった。東京都心は新陳代謝が激しくいつもどこか工事をしているし、少し郊外に出ても人の視線の行き届いた隙のない街が広がっている。そういった街にいると、逆にこちらが街から見られているような気がして落ち着かない。整備場駅周辺のような場所は、土地自体が自分自身でいっぱいいっぱいというか、少なくとも人間には無関心なように思えるので、こちらも気を遣わないで良くて(?)気楽だ。

自分にとって「住むの風景」とは何だろうか。と考えると、生まれ育った埼玉の土地が頭に浮かんでくる。バブルの時代、東京の人口が飽和して人々が郊外のベッドタウンに住み始めた頃、私の家族も埼玉県浦和市(現さいたま市)のはずれに移り住んだ。そこは公団が建てた集合住宅のひとつで、1989年当時小学3年生で転入した学校には、自分のようなよそ者がたくさんいた。街は半農半住の土地の隙間を縫うように開発され、真新しい道が敷かれ、我が家のある場所も元々これといった歴史もない沼地だった。夜、新しい道が街灯に照らされ、そこに車が一台も走っていない光景を見ていると、どこか非現実的で未来的なかっこよさと、無意味さを感じた。道端には、草が茫々と生えていた。(埼玉はよく草が茫々と生えている。)

同じスピードに惹かれている

© Eisuke Asaoka

おそらくその原風景と重なって、東京湾岸埋立地の風景に惹かれている。東京以外でも、大都市部にいると退屈で、かといって自然あふれる土地が好物というわけでもなく、どことなく人の気配もあるが忘れられかけている中間地帯のような場所を探してしまう。
最近都市の時間という考え方を知った。簡単に言えば都市の新陳代謝のスピードの事だけど、例えば東京でも、場所によってグラデーションがある。そのグラデーションの山を考えた時、渋谷駅周辺がひとつの頂で、東京の南の裾野に整備場駅、そして北にはみ出たところにある裾野に埼玉県さいたま市のはずれがあるのかもしれないと思った。同じようなスピードの時間が流れている場所に惹かれてしまうのは、身体に染み付いた何か逃れようのないもののような気もする。

今まで都市を撮りたいと思った事はなかったけれど、いざ考えてみると人間に比べてサイズも時間もとても大きいので−−写真は人間のサイズと時間感でしか撮れない−−むずかしさを感じた。微視的なものになるので、膨大な量を集めるとか(1900年頃、パリの街をくまなく撮影して回ったアッジェの仕事を思い出す)、定点観測の手法で記録するとか、積分的な処理をしないと見えてこないものがあるように思う。
目の前を凝視するだけでなく、その反対の大きなものを想像しながら、「四十年目の都市」について考えてみるのは、楽しい試みだ。温さんと自分(同じ1980年生まれ)が全く違う視点と経験を経て、このモノレール近辺で形は違えど同じ「原風景」を感じていたのは不思議なシンクロニシティだった。