20250124
2024年11月26日火曜日(後編)
「台湾では一九六〇年代末に最初の臨時コンテナ埠頭が登場した。コンテナの積み卸しに使われるガントリークレーンが埠頭に設置されてからというもの、貨物船の周囲には、手作業なりフォークリフトなりで貨物の積み卸しをする苦力の姿は見られなくなった。代わって出現したのは、十階建てのビルと同じぐらいの高さの巨大なガントリークレーンと、川の水のごとく絶え間なく行き来する大型トレーラーの群れであった。(…)
一九八四年、海外との接点をなすこの小さな港は、一躍世界第7位の規模を誇るコンテナ埠頭となった。」
基隆が、台湾北部最大の港湾都市が国際港として繁栄を極めたのは1980年代半ば。それは私が、台湾を離れた時期とちょうど重なる。台湾で生まれながらも私は、3歳になってまもなく、父親の仕事の都合で、日本で暮らすこととなった。
国境を跨るたびに両親がそう言っているのを聞いていたので、幼少期から私も、自分は“台湾”と“日本”の間を移動しているのだといつも思っていた。
しかしよく考えれば(いや、よく考えなくても実は明らかに)、私にとっての「日本」とは、自分の知っているごく限られた日本の一部でしかない。
そのことに気づいてからはずっと、自分が生活の拠点を置くこの場所が、日本、である以前に、この国の大首都・東京であるということを、なるべくいつも思い出そうと努めている。
折しくも、自分や家族の「在日」期間が40年を超えるタイミングで、この「住むの風景」のプロジェクトに誘ってもらった。それも、東京篇、である。
そこでまずは、私にとって東京の中でも特に心惹かれる風景が見られるいくつかの場所を訪れたのだった。
東京モノレール沿線のいくつかの駅(整備場、流通センター……)、箱崎町の東京エアポートシティターミナル。
横浜、Dふ頭。
田町の東京ポートボウル……
どちらかといえば、色味が限られている。どちらかといえば、殺伐としている。どちらかといえば、潤いがない。
そういう風景がある場所にばかり行きたがる私を、柴原さんはじめ、朝岡くんとケイタニーさんは面白がり、根気よく付き合ってくれた。
日台を行き来するには、空港を通過しなければならない。空港には、モノレールやリムジンバスで向かう。起点が日本(東京)にしろ台湾(台北)にしろ、出発地から到着地に至るまでの経路を含む風景はもちろん、そういう風景によく似た場所に身を置くときも私は、自分の「記憶のどこかの隙間に留まり、そこで眠ってはいるが、死んでしまってはいない」何かが息を吹き返す「気配」を、あるいは「ちょっとした身振り」のようなものを、いつも確かに感じるのだ。
ただ、最初からわかってもいた。自分のこんな感慨は、あまりにも個人的すぎる。
「波止場食堂」のテラス席から見えるのは、客船ではなく、コンテナ船の姿の方が目立つ海岸だ。その光景に予想していた通り心惹かれながらも、私はいよいよ焦れったくなる。風景の中に折り重なる記憶とそれがもたらす時間の流れを、もっと私個人だけのものではないと示す手立てはないだろうか?
それなら、と柴原さんが提案する……今後、たとえば「流通」の歴史について調査を深めてみるのもいいかもしれないね……とてもいいアイディアだと思った。たとえば、港。あるいは、ターミナル。何かと何かの中継地。ヒトやモノが、出発地と到着地の間にあるという段階。
そういう場所にばかり私は興味を抱く。日本(東京)と台湾(台北)。出身国と居住国。地図の上の、二つの地点の中間地帯こそが、自分の居場所なのだと感じたがっている私は、だからこそ港やターミナルといった場所に特別な親近感を抱く。
思い出すまでもないことではあるけれど、空港や港を通過するときの私は、いつも(そう、いつもだ!)、どことなく浮かれている。しかしこれも言うまでもないことなのだけれど、レジャーやビジネスといった旅の発着点で、私のような旅客が、快適かつ安全に移動中の高揚感を堪能し得るのは、空港が「正常」に機能することを底から支える人たちのおかげなのだ(グランドスタッフ、航空整備士、航空管制官……)。
モノの移動を支える流通もそうだ。コロナ禍の頃にも痛感した。スーパーやドラッグストアに、マスクやトイレットペーパーがなくなる。しかし、なくなったのはモノそのものではない。運搬が滞れば、私たちの「日常」は、たちまち乱れる。いや、当たり前と思い込んでいた「日常」が、まったく当たり前ではなかったと発見することになる。
波止場食堂では、満腹になったらしいスズメが、海の方向に向かって羽ばたいてゆく。海と、倉庫会社と思われる建物の白い壁の方に目をやると、安全帽を被った男性が歩いているのが見える。
どんなシステムもそうであるように、いったん出来上がってしまったあとでは、もうその形でしかあり得ないと錯覚しがちだが、あらゆることには必ず始まりがある。
その意味では、運搬や物流の基本的な仕組みを学び、その歴史的変遷について、きちんと知っておくのは、大事なことかもしれない。それに、こうしたことについて学んでおけば、たとえば、グローバル資本主義の影響下、国際港に入港するコンテナ船の増減によって人生を左右されてきた基隆の港湾労働者たちについても、もっと具体的に想像力を働かせられるようになるかもしれない。まさにそれは、私の知らない「台湾」について想像することにも繋がるはずだ。
「この場所が現在のようになる前、埠頭にはどんな人たちがいたのだろう? その人たちはいま、どこへ行ってしまったのか。彼らの身にどのようなことが起こり、いまはどのような生活をしているのか。そうしたさまざまな変化は、どのような力によってもたらされたのか。」
芝浦一丁目。港区コミュニティバスの停留所の対岸には、東京ポートボウル。そこから私たちは、港南ルート品川駅東口海岸3丁目行きのバスに乗る。バスが走り出してまもなく、前の席に座っている朝岡くんがこちらを振り返る。
「ほら、こんなのやってるんだね」。
そこには、15秒の物語動画募集中、という文字が華々しく踊っていた。港区が主催する動画コンクールの広告らしい。テーマは「映えSPOT」(原文ママ)。東京タワーやライトアップされた迎賓館、虹色に輝くレインボーブリッジなどといった「手本」の動画が次々と流れる。
区としては、新たな「ナイトスポットを発掘し、魅力あるロケーションツアーの開発」(原文ママ)が目的らしい。
なるほど、と思う。
「都会の夜を彩る風景」(原文ママ)を求める区の側は、プロフェッショナルのフォトグラファーやクリエーターを雇わずとも、こうしたコンクールを催せば、応募されてくるはずの作品を広報のためにいくらでも活用でできるし、コンクールの参加者はといえば、入賞すれば自身の作品が「港区を席巻する」(原文ママ)という“報酬”が得られる。
ところが私(たち)は、映えSPOT、というキャッチフレーズにも、その手本として示される煌びやかな動画――それらは間違いなく美しく、ハイクオリティではあるのだが――にも、ほとんど魅惑されない。少なくとも私は、港区を、ということは東京を、言ってしまえばこの日本で最も栄えている大都会を、最も美しく切り取った風景といえばこんなふう、という、その不特定多数的な迷いのなさにやや怖気づく。
「歴史は常にその時代の基準によって、何が記録するに値し、何が言及するに値しないかを切り分ける。」
何が記録するに値し、何が言及するに値しないか。私たちは、少し油断しているうちにも、あっという間に、絡め取られてしまう。その時代の、その社会の「基準」に、知らず知らず、従わされてしまう。
そんなことを取りとめもなく考えているうちに、バスは橋を越える。品川が近づく。
橋を隔てて、ここからこそ、見える「風景」。
橋の彼方の、そこからしか、見えない「風景」。
自分がどこにいるかによって、見えるものと見えないものは容易く入れ替わる。そう思えば、相変わらず、私の視界はとても限られている。私の目に映るものだけでは、私は私の取り巻くこの風景を、ほとんど理解できないだろう。
そうとわかっているなら、私はこれから、何を「見る」ことに努めるべきなのか?
2010年代になるかならない頃にはすっかり廃れた基隆のことが頭によぎる。けれどもそこは、1980年代半ばの頃は世界第7位の規模を誇る台湾有数の国際港だったのだ。それを意識した途端、アジアの経済を牽引した二つの首都・東京と台北の間を行き来しながら、前者が自分にとっての「日本」であり、後者が「台湾」なのだと信じて疑わずに大人になり得た自分の「視野」が、微かな痛みを伴いながらも快く押し広げられるのを感じる。
*冒頭を除く本文中の「 」で括った文章は、特に断りがないものは全て『静かな基隆港 埠頭労働者たちの昼と夜』(魏明穀著、黒羽夏彦訳、みすず書房、2024年)から引用。