20250116
2024年11月26日火曜日(前編)
「忘れられた物事は、完全に消え去ってしまうわけではない。どこかに、記憶のどこかの隙間に留まり、そこで眠ってはいるが、死んでしまってはいない。なのでもちろん、目覚めることもある。ときに、そうなるには何かの気配だけで充分である。あるいは、ちょっとした身振り」
ベルナルド・アチャガ
「波止場食堂」は、芝浦ふ頭駅から約徒歩5分。社員食堂のような雰囲気で、入り口に券売機がある。店内が明るく感じられるのは、一面張りの窓のためだろう。ランチタイムのピークを避けて来たのもあって、ほとんどのメニューは売り切れ。柴原さんと朝岡くん(今回、ケイタニーさんは欠席)と私、三人とも同じメニュー(日替わりA定食)になる。650円。東京港福利厚生協会が経営するだけあって、ありがたい値段だ。ボリュームたっぷりで、食べ切れるか少し不安になるほど。
幸い、予報ほど寒くはなく、青空が広がっている。それで、テラス席を選ぶ。味はといえば、なかなか美味しい。完食と同時に眠くなってしまいそうだ。箸を動かしながら、いつものように、とりとめのない話をしていると、スズメがやってくる。とても人懐こい。朝岡くんがご飯粒を乗せた指先を差し出すと、ためらうことなく食べにかかる。一度だけでなく、何度もそうやって、ご飯粒を貰ってゆくそのスズメの、愛らしいふてぶてしさを見習いたくなる。
目の前は、海。停泊中の小型船や、倉庫会社と思われる建物の白い壁が見える。対岸は、地図によれば晴海か豊洲か。とにかく、波止場食堂、と名付けられたレストランがある場所いかにも相応しい風景である。ここは、東京港芝浦サービスセンターの中にある福利厚生施設の一つなのだ。
つい先日まで、ここに、こういうレストランがあることを知らなかった。柴原さんと朝岡くんとここを訪れる数日前、私が気まぐれに「波止場、東京」と検索してみたのは、『静かな基隆港 埠頭労働者たちの昼と夜』(魏明穀著、黒羽夏彦訳、みすず書房、2024年)を読んでいた影響だった。とりわけ、「あの頃、海辺にいた少年と男たち」と題された第2章から、みるみるのめり込んだ。
「台湾がまだ日本の植民地だった頃のこと。基隆はほかの街とは違って、小さいながらもにぎやかな辺境都市であった。とりわけ市街地に位置する東西の埠頭では、雨の日も晴れの日も、昼夜を問わず大勢の少年や男たちがあちこちを駆けずりまわっていた。日本統治時代から一九九〇年代末に至るまで、ある時は肌をさらし、ある時は雨具をかぶってさまざまな貨物をかついだ男たちが、その歩みの一つひとつによって台湾と外の世界を結びつけていた。埠頭の外側で暮らす基隆の住民たちは、故郷を離れて基隆へやってきたこれらの男たちを、当時埠頭を管理していた日本人にならって「苦力(クーリー)」と呼んだ。」
埠頭の荷役に従事した「苦力(クーリー)」やクレーン操縦士、トレーラーの運転手
……『静かな基隆港』を読んでいると、港湾労働者やその家族、埠頭周辺の人々の個々の生活のようすや、こうした人々が、特にここ半世紀にわたるグローバル資本主義のあおりを受け、その人生を翻弄されてきたかがまざまざと伝わってくる。台湾北部の港湾都市・基隆が、心理カウンセラーである著者の調査対象に選ばれたのは、そこが2000年代を通じて壮中年男性の自殺率が全国で最も高い場所だったからだという。「彼らは私たちである」と題された五章には、こうある。
「港湾労働者が一九七〇、八〇年代において、底辺へ落ち込む直前に迎えた華々しい時代がそうであったように、かりそめの繁栄は、新自由主義が世界各地でくりかえし再演している残酷な演目を覆い隠してしまう。(…)新自由主義によって貫かれたこの世界において、基隆埠頭の男性労働者たちが身を以て示した生の境遇は、絶対的多数の人々にとっての未来を予告するものとなるであろう。」
基隆といえば、映画『悲情城市』の舞台(の一つ)でもある。忘れられない。あの映画は、玉音放送が流れる場面から始まる。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……
1945年8月15日、のちに昭和天皇と呼ばれる陛下の「声」は、台湾でも流れた。日本の敗戦は、日本の統治下にあった台湾の人々の“その後”の運命をも大きく左右した。侯孝賢監督によるこの映画は、「歴史に翻弄される家族の愛と悲しみの年代記」と銘打たれた。映画の時代背景である1945年から1949年という数年間は、台湾に暮らす人々の頭上で、大日本帝国から中華民国へと「支配者」が交代しつつある混乱期である。
2022年春、祖母の法事で四年ぶりに台北を訪れた際、私は、かの誠品書店で平積みになっていた『悲情城市』の「読本」を購入した。映画が公開された1989年から30年以上の月日を経てもなお、脚本家をはじめ、製作に携わった方々のインタビューや映画の台本の元となった原稿などを収録した本が、大型書店の最も目立つ陳列台で平積みになっているだけでも、台湾人にとってこの映画がいかに特別なのかがよくわかる。事実、その表紙には「身為台灣人 一生必看的電影」という一文があった。台湾人なら生涯に一度は観るべき映画、という意味の中国語である。その文字を指でなぞりながら私は、我也是台灣人(私も台湾人だ)と思ったのだった。ただし、「台湾人」とはいっても自分は、中国語ではなく、日本語がネイティブの台湾人なのだと。
だからこそ私は、あの映画の冒頭で流れる玉音放送は言うまでもなく、映画の中で、台湾から去らなければならなくなった日本人たちが話している日本語も、当たり前のように流ちょうな日本語でそれに応えるあの時代の台湾の知識人たちの会話も、翻訳なしで理解できてしまう。まるで日本人のように。
逆に、「身為台灣人(台湾人として)」、当然、聞き取れて然るべき中国語を、私は耳だけでは到底理解できない。日本語の字幕に頼らざるを得ない(むろん、中国語に限らず私の語学力が乏しいという個人的な事情も大きいのだが)。
自分は、そういう台湾人なのだといつも思う。そういう台湾人である自分を意識するたびに私は、自分にとっての「台湾」が、台湾人にとっての台湾とは言うまでもなく、日本人にとっての台湾ともおそらくは、ぴったりと重なっていないはずだと思い知らされて、眩暈に似たものを覚える。
それでは、私の「台湾」とは?
たとえば、『悲情城市』は、「1949年12月、大陸を奪還するために、国民党政府は台北に臨時首都を遷都した」というナレーションおよび字幕とともに幕が下ろされる。
考えてみれば私は、あの映画の登場人物たちの“その後”については想像したことがあっても、かれらの家や店、暮らしの基盤である基隆という港湾都市の“その後”については、ほとんど知らない。
いや、知ろうと考えたこと自体、ほとんどなかった。「あの頃、海辺にいた少年と男たち」やその家族は、『悲情城市』が描いた時代に続く次の半世紀を、どのように生きていたのか。
私は何も知らないに等しかった。