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2022年10月21日木曜日
前回のリサーチから半年が空いた。「災害級」とも報道された燃え盛る暑さを凌ぐために家に篭り続けた夏が過ぎて、今は秋。散策に最も適した良い気候である。
今回の私たちは、恵比寿の、まずはホテルエクセレントのカフェ・レストラン「マーベル」に集合した。ホテルに面した通りはちょうど恵比寿神社の縁日で、出店がずらりと並んでいて平日にもかかわらず活気があり、とても賑やかだった。レストランの窓からは、山手線が行き来するのも見える。この光景を覚えていると思う。エクセレントホテルが建つ前も、ここはレストラン、いや町の食堂と呼んだ方が良さそうな、釜飯を出す店が入ったビルがあった。その店の窓辺のテーブル席に座り、子ども用のスプーンで釜飯のご飯を口に運びながら、その頃はまだ緑一色に塗られた山手線が線路を行き来するのを見ていた記憶が確かにある。私の向かい側には、まだ赤ん坊に近かった年頃の妹に母が何かを食べさせていた。
ネットで軽く調べてみたところ、「ホテルエクセレント恵比寿」の建物落成は1995年とのこと。ホテルが開業した時の様子は全く覚えていないけれど、翌1996年の春から私は北区にある東京都立飛鳥高校に通い始めていて、その飛鳥高校で出会った同級生の一人に恵比寿に住んでいると話したら「駅前のあのホテル、私の父親が設計デザインしたの」と言われたことならよく覚えている。それ以来ずっと、Sちゃんのお父さんが作ったホテル、とその建物を見かけるたびに思った。そしてSちゃんのお父さんの手がけたビルが建つ前の、その場所の景色がどんな風だったのかは、忘れるがままに、すっかり忘れていた。
恵比寿は、私が3歳から28歳まで家族と暮らした場所である。
思えば私は3歳で台湾から来日し、日本語が一言、二言しかわからない状態で、幼稚園に通い出した。家の外では通じない言葉として中国語や台湾語を封印する代わりに、日本語を覚えて、自分以外は全員日本人という環境に馴染んだ。中学1年生となる13歳の頃には同い年の日本人の同級生たちとほとんど変わらない、ごく普通の調子で日本語を喋っていたし、むしろ台湾に戻れば、台湾の同じ年頃の子どもたちがごく普通の調子で話すようにはとても中国語を話すことができなくて、又柔はすっかり日本人みたいになっちゃったねえ、と親戚たちから口々に面白がられた。さらに年月を経て、いよいよ私たちの一家は永住権を申請したが、東京入国管理局からその申し出は却下された。理由は明白。申請筆頭者である父の年間日本滞在日数が少な過ぎたためだ。父は私が高校生になるかならぬ頃から中国大陸や台湾での出張が増え、東京以外にいる機会の方が増えた。入管からの却下の理由は十分に納得の行くものだった。日本にほとんど住んでいない外国人に「永住権」を与えることは理に適さない。しかし父は海外を飛び回っていたものの、母と私と妹はもう20年近く、少なくとも年間360日以上は日本で暮らしている。そんな母と私と日本生まれの妹の日本での在留資格は「家族滞在」。あくまでも「投資・経営」ビザで日本に在留する父の「家族」として「滞在」が許可されているという身分である。
ずっと日本で育った。日本語を使って生きている。しかし、戸籍の上では外国籍である私(や妹)は、限りなく母国のように感じていたこの日本に「永」遠に「住」むことが認められていない。
自分は、日本国からの在留許可がなければ人生の大半を過ごした街に住み続けることも叶わない。私がそのことを思い知ったのは、大学を卒業し、修士課程に進んだばかりの頃だった。そしてその頃に私は、李良枝の小説と巡り合った。
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日本生まれの韓国人女性である李良枝が、その短過ぎる生涯を駆け抜けて書き遺した小説や散文の数々は、当時の私のちょっとした精神的な「命綱」となった。
私は日本人としては生まれなかった。
しかし、日本語で私は生きている。
李良枝の小説は私に、日本語は、日本人だけのものではなく、韓国人である彼女や、台湾人である私のものでもあるのだと教えてくれた。
要するに私は、日本人ではない自分のありようを、日本語で書くという行為を通し、自分が作り上げる文章の中に自分自身の居場所を獲得する方法を、李良枝の書物から教わったのだ。
韓国人でありながらも日本語が血肉化した個人のありようを徹底的に表現した李良枝に触発されて、この頃から私は、台湾人でありながらも日本で育ったという、自分の分身のような人物を主人公にした小説を書きたいという思いを募らせるようになった。
いや、書かなければ、とほとんど思い詰めていた。
限りなく日本人に近しい気分で生きているのに、その実、私はこの国に永住する権利がない。その疎外感、心もとなさを鎮め、癒すために、小説を書くという行為を通して、自分の文章の中に自分にとっての確かな居場所を見出したかったのだ。
小説家になって十年以上が過ぎた今も、一作また一作と新たな作品を書こうとする際の私の動機の根底には、今、すでにある世界に対する自分の居場所の無さのようなものへの意識と、だからこそ、私(のような者たち)がいてもいい場所を作り出してみせる、という意地のようなものがある気がする。
この国が、私のものでないとしても、この言葉は、私のものではある。それが私にとっての、自分と日本、自分と日本語との関係だ。
しかし考えてみれば、私は日本の、それも東京のほんの一部しか知らない。そして子どもの頃の私にとっての世界とは、日本の東京の恵比寿界隈のことだった。両親が中国語で「日本」と呼ぶ世界。私にとっては、自分の通う小中学校、同級生たちが住む家々——一軒家、マンション、団地——が点在する路地、タコの形を模した滑り台のある公園、渋谷川に跨る橋、薄暗いスーパーマーケット、商店街の小規模な玩具屋や文房具屋、雑貨屋、生魚や野菜売り場のすぐ隣の美容室、寝具店、焼き鳥や茶葉を売る個人商店が一堂に介するストア、おばけが出てきそうな戦前に建てられたビルの歯科医院、縁日があれば出店がずらりと並ぶ沿道、そしてボウリング場、ホテルエクセレントの前身のビルの中の定食屋……それが幼い頃の私の「日本」で「世界」だったのだろうか。
約1年前、「住むの風景」のプロジェクトが始まり、「東京」と聞いて浮上する、それぞれの記憶にとどまる風景を、今のうちに見ておこうとなったとき、私は自分が最も長く住んだ恵比寿は、真っ先に除外した。自分にとっての原風景なるものは、現在の恵比寿では見出せるはずがないと思ってしまったのだ。今の恵比寿には何もない、何も残っていない。あるのは、ガーデンプレイスとアトレぐらいだ。
ガーデンプレイスとアトレ。
恵比寿を一躍、「お洒落」な街にした二つの商業施設。2008年、Uと同居するために、約四半世紀暮らした恵比寿から引っ越した。翌年、両親と妹もそれまで住んだ恵比寿のマンションを売って品川区に住み替えた。
考えてみたらそれからの13年は、私が小説家として活動を始めた期間と重なる。
(台湾人である)あなたにとって故郷はどこですか? (台湾出身の)あなたは日本と台湾のどちらをホームランドだと考えますか? (台湾生まれ日本育ちの)あなたにとって母国とはなんですか?
いつも、国という単位を前提に、こうした質問と向き合ってきた。
自分にとっての台湾、そして日本。私は私にとっての日本、と思索を巡らせるとき、恵比寿のことをどれだけ考えていて、そして考えていなかったのだろう。
3歳で、日本にきた。
13歳の頃には、日本にすっかり馴染んでいた。
23歳で、自分にはこの国に永住する資格がないのだと思い知る。
33歳と5ヶ月10日目、ついに日本に「永住」する権利を取得した。
それからまた、10年が過ぎようとしている。東京モノレール沿線、箱崎のエアシティターミナル、横浜港シンボルタワー所在のD埠頭、竹芝の東京ポートボウル……なぜ、こんなに遠回りしてからでないと、恵比寿にたどり着けなかったのか。
ホテルエクセレント、参拝客が行列を作る恵比寿神社、そのすぐ脇のビジネスホテル、ほとんどの店がシャッターを下ろすえびすストア、大規模修繕中の「母校」の校舎、同級生と毎日通った路地、ピーコックストアとその地下にある飲み屋街、ガーデンプレイスの敷地に聳える「トップ・オブ・エビス」を謳う高層ビルの展望台、駅に続く線路沿いの坂道の脇にあるゲームセンター、あそびば。ボウリング場のあった坂道の終わり。
私がこの国に住み着いた頃の風景の片鱗が、まったくないとも言えない恵比寿を歩き回りながら、恵比寿には何もない、何もないんだよね、と柴原さんと朝岡くんに対して妙に気後れしながらも、実は私は二人に対して口にする価値があるのか戸惑う夥しい記憶が疼くのを感じていたのだ。
小学1年生の頃にちょっと苦手だった同級生から肩を掴まれて、ほらここ、来年になったらたんぽぽいっぱい咲くよ、と言われたのにたんぽぽが生えたかどうか確かめ損ねた空き地(もちろん今はビルが建っている)。まだアトレもガーデンプレイスもなかった頃の夏休み、同級生の母親がパートしているスーパーマーケットのお菓子売り場のあたりで長い時間涼んだこと。ホジョゴゴウセン、と大人たちが言うので友達同士でもそう言い合った通学路の長い道、その通学路の壁に「高層ビル建築反対」という大きな看板が掲げられていて、いつも悪戯ばかりしてた男の子が拾ったマグネットをなんとなくその看板に投げつけたらピタッとくっつき数年間もそのマグネットがそのままになっているのを「まだあるねえ」と友達と感嘆しあったこと。恵比寿東口の改札まで緩やかな傾斜の石段の裏にある壁に暴走族の落書きがあって友達が「これ書いたのお兄ちゃんの先輩なんだ」と教えてくれたこと。小学6年生の時ちょっと好きだった男の子と一緒に入ったベッカーズ(今はサンマルクカフェになっている)でコーラを飲んでいたら「ストロー噛むんだね」と可笑しがられて恥ずかしかったこと(私はストローを吸うのが下手だったので歯で噛んでしまうのだ)。月曜日の朝スラムダンクの続きが読みたくて早起きして制服姿で寄り道したコンビニ、高校生になって久々に立ち寄ったパン屋さんや本屋さんでアルバイト中の中学時代の同級生に遭遇するとこそばゆかったこと。大学生になって携帯電話を持ち友達との長話を終えたくなくてわざと遠回りした道。私の「地元」が見たいと言う彼氏と一緒に入ったゲームセンター。その彼氏との別れ話をするための電話をした時に腰掛けたベンチ。家族で焼肉を食べた日に大学院に進学したいと打ち明けたら、良い選択だ、と父が快諾してくれてホッとしながら家族と連れ立って歩いた帰り道の先に満月が浮かんでいたこと。
思い出そうとして思い出したのではない。風景が次々と私に思い出させる。
私が日本人ではなく外国人で、それが理由で、今もこの国の人間でないと言うのなら、なぜ私は自分のものではないこの国の風景に、なぜこんなにも個人的な記憶が刺激されるのか。それも、至極、凡庸な数々の記憶が。しかし、その場では同行者たちに言い出せなかった、できれば永久に思い出さずにいたかった数々のことほど、今回の散策を経たあとでは、以前よりも可愛げのある記憶として感じられてくるのである。こうして、私と記憶の関係は、知らず知らずまた更新されてゆくのだろうか。
今回の散策の最終地点は、柴原さんが高校生の頃にしょっちゅう通っていた代官山の「ボンベイバザー」だった。ブルーベリーの美味しさで有名なその店に落ち着き、喉を潤し小腹を満たしながら柴原さん、朝岡くんと尽きぬおしゃべりに勤しむうちに、17歳や18歳だった頃は全然別々の人生を生きていたはずの自分たちが、今、一緒にここにいるということが、妙に尊く思えてくる。(今回、ケイタニーさんは欠席)。ぐんぐん上昇する恵比寿ガーデンプレイスタワーのエレベーターの中でも思っていた。それこそ、凡庸な感慨ではあるのだろう。それでも、人生で偶然に出会える人の数が非常に限られていることを思えば、40代の現在、こういう時間を時々持てることを、10年20年先の私はきっと感謝してくれているはずだと感じる。