Scenes of New Habitations

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住むの風景

私たちのおまじない

柴原聡子

私たちのおまじない

©Eisuke Asaoka

私は今まで一回も引っ越したことがない。両親と兄は、私が生まれる直前に砧にある社宅から引っ越して、今の地に戸建てを建てた。正確に言うと社宅で一緒だった3世帯で長屋を建て(そして、そのことが今になって相続など割と複雑な問題を生むのだが)、今もそこに暮らしている。とはいえ、私は小さい頃から友達の家に泊まることが好きで、幼稚園生だったのに、友人の別荘に友達家族+私だけという状況で付いて行き、1週間ほど過ごしたこともある。枕が違うと寝られないと泣いてしまう子のことが信じられなかった。10代後半にもなると、理由をつけては一人暮らしの友人の家に泊っていたし、海外も含め、一人旅もよくしていた。
これらの思い出はすべて「地元」ではない場所での話だ。中学から電車通学となった私は、いよいよ子どもたちだけで遊びに行けるような年頃には、すでに地元を離れていたようなものだった。何より、大晦日に家族と深夜初詣に出かけると、小学校の同級生たちが地元中学の友達たちだけで遊びに来ているのがうらやましかった。

私たちのおまじない

©Eisuke Asaoka

「住むの風景」の東京リサーチ5回目は、温さんが幼年時期から28歳まで過ごした恵比寿を歩いた。まず、温さんのかすかな記憶も残るホテルのカフェでランチを食べた。温さんはそのホテルが建つ前にあったレストランでの記憶があるだけなのだが、景色は変わらない。ホテルといってもカジュアルな場所で、ナポリタンとかハヤシライスといった庶民的なメニューを推している。温さんがこういったちょっと懐かしい感じの場所が好きな理由はまだ解明されないままなのだが、一貫した志向の種をいつか知りたいと思う。

恵比寿の街を温さんの案内で歩く。どこも、当たり前だが通ったことのない道だ。私が知る恵比寿は雑誌に載っているおしゃれマップみたいなものを、そのページだけ破って、こそこそカバンから取り出しては記憶して……を繰り返して、目当ての店に行っていただけの場所なのだから(地図を見ながら歩くのは恥ずかしいと思い込んでいる、10代の自意識過剰も何なのだろうと今となっては思う)。プラプラ歩きながら、ここを毎日友達と通学してて、とか、温さんはなんとなく恥ずかしそうに話す。「大したことない」「何にもない」を連発しながらも、かなりクリアな思い出話だ。初めて通る場所には、普通に公立の学校があり、細い路地やそこに沿うように狭小住宅や木賃アパートがあった。都心の喧騒はなく、のどかな風景だ。温さんは同世代なので、あの頃は……と言って思い出す話に共通点も多い。同じ頃――こんなふうにマンションばっかりになる前――ここで過ごしていたんだなあと、妙に感慨深くなる。

ぐるっと回り、また駅から代官山方面へ山手通りを上る。途中で曲がって、マルタン・マルジェラの路面店近くのピーコックに寄る。私のようなお目当ありきで来る者にとっては「マルジェラの近くにあるピーコック」だが、温さんにとっては「ずっとあるピーコックの傍にマルジェラができた」記憶である。あることは知っていても入ったことはなかったピーコックは、想像以上に時が止まった場所で、なじみ深い感じもした。温さんが、お母さんが買い物中に遊んで待っていた階段や踊場を案内してくれる。たぶんサンリオのグッズとか売っていたんだろうなという場所は100均になっている。ピーコックの踊り場の壁はガラスブロックになっていて、午後の光がきれいだった。

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©Eisuke Asaoka

朝岡君が好きだという、洋書店「POST」へ寄った。写真集が中心だが、美術の洋書も扱っている。私が一番好きなマイク・ケリーの、これまた一番好きなシリーズ〈Day is Done〉をまとめた豪華本に出会う。閲覧してよいそうで、立派な箱の中から本を出して見る。このシリーズは、マイク・ケリーの遺作となったもので、彼がヤードセールなどに出される一般人が撮って捨てたファウンドフォトから見出した「しょうもない行事」の数々を再現しまくるという壮大なプロジェクトだ。学校で行われるプロムや弁論部の発表、仮装パーティなどから、地域で行われる謎の行事――スレイヴデイ(奴隷の日)と言われる「一日みんなで虐げられた人になりきる」行事や、全員がロバに乗ってバスケをするドンキ―・バスケットボール――まで、痛々しいほどにダサくてバカっぽい催しを再現している。ソースは写真のみだが、ケリーは独自の解釈で膨らませた悪趣味な映像やインスタレーションとしてまとめ上げ、これを「現代アメリカの宗教」と呼んでいた(志半ばで亡くなってしまい、完結しなかったことが悔やまれる)。この傾向は同時期の他作家にも共通していて、キリストが生まれた馬屋へ学者を導く天使がE.T.になっているだとか(トニー・ウースラ―)、厳粛なシェーカー教とパンクのオーディエンスのトランス状態を重ねるとか(ダン・グレアム)、日本人の私からは想像しづらい「ダメなアメリカ」を教えてくれる作品が多い。彼らは、歴史が浅いアメリカという国の中で、必死に自分たちの大文字の歴史≒宗教を探していた。その拠り所となるのは、映画やテレビ(膨大なチャンネル数があるCS)、音楽といった大衆文化だったのだろう。彼らが重ねる学校行事や大衆文化が一般の人々にどれほど染みついていたのかわからなくとも、それらに託したい気持ちになったことは想像がつく。

私たちのおまじない

©Eisuke Asaoka

「住むの風景」は、名前の通り「風景」を起点としているが、そこにはどうしようもなく「同時代」ということも絡んでくる。風景は常に変化するから「あそこに何があった」という記憶をもとに語られることも多い。東京のように常に開発を繰り返す街の場合は、10年くらいのスパンで同時代的風景が変わっていく。だから10歳も違うと、買い物してたエリアやお茶をしたお店も変わるし、見ていた景色も変わる。
奇しくも同世代の温さんが育った街の本屋で、現代の宗教を同時代性に求めた作家の本に出会った。その偶然がヒントになっただけではあるものの、一般的に「ふるさと」と呼びづらい≒変わらぬ風景がない首都圏で、自分たちだけが知っている「おまじない」のような何かを知りたくて、こんなふうに歩いているのではないかと思えてくる。

その後、温さんが恵比寿ガーデンプレイスタワーの最上階へ連れていってくれた。誰でも行けることを初めて知った。エレベーターはガラス張りになっていて、ぐんぐん高くなっていくうちに、東京の景色が眼下に広がる。雲一つない晴天なのに、やっぱり高いところから見る東京はどこかうっすら靄がかかっている。かすんだ風景は、映画『ロスト・イン・トランスレーション』(2004)の、パークハイアットから見下ろす景色を思い出させた。私は公開当時この映画に夢中になった。ほとんどが「ガイジンから見ると東京ってこんなにクールなんだ!」という逆輸入的な評価だったが、私にとっては、アメリカの監督がなぜこれほど自分が日々感じている東京をリアルに映像化したのかと、目から鱗が落ちるようだった。大好きだったマイ・ブラッディ・バレンタインの曲がサントラに多用されていた。その曲はノイズが覆う奥にうっすらメロディが聞こえる程度で、日々東京の雑踏の中、大学に通っている気分を再現してくれていた。この興奮をきっかけに作った修正設計を発表したところ、講評会で教授に「あなたは帰国子女か何かですか?」と聞かれ、呆気にとられたことを覚えている。

私たちのおまじない

©Eisuke Asaoka

温さんの案内で歩いたこの日の恵比寿は、それまでとはまったく違うものに見えた。地元を感じることがほとんどなかった私が「風景」にこれほどこだわるのは、そして、「現代の宗教」を探したアメリカの作家に惹かれるのは、「私たちのおまじない」に自分のホームを求めているからなのだろうか。私は、固有の土地に紐づくものではなく、「風景」に込められた無数の営みに、一人ひとりのおまじないに、誰かの住処を見ているのかもしれない。

三人でOkuraの地下にあるカフェでひとしきりしゃべって(内装が約25年前と一切変わっていない)、代官山蔦屋でみんなと別れ、渋谷駅へ向かう。たまに行く明治通り近くの古着屋に寄って、衝動的にダッフルコートを買った。やっていることは変わっていないが、渋谷の景色はだいぶ変わっている。買う服もあの頃からちょっとだけ高級になった。
今現在の「私たちのおまじない」はどこにあるのだろう。未だ工事が続く渋谷の、わずらわしい歩行者用通路を歩きながら考えていた。