20251206
歩く風景のためのメモ
海を介したこの3つの土地を、作家たちが紡ぐ物語がつないでくれたら。
そんな想いを込めて、「歩く風景」を立ち上げることにした。
歩く風景は、日台韓の3人の作家が、自らが育った場所とは異なる土地を歩き、その地の過去と現在を感じ、語り直す試みである。
この企画を考える前から、プロジェクト「住むの風景」では、作家の温又柔さん、アーティストで詩人の瀬尾夏美さんらとともに、東京や東北、インドネシアなどを訪れてきた。
そこに、偶然、パク・ソルメさんとの出会いがあった。最近は日本で盛んに韓国現代文学が訳され、刊行されているが、パクさんはなかでも継続して訳書が出ている人気の作家である。
パクさんの『未来散歩練習』は釜山の実在の事件であるアメリカ文化院放火事件をモチーフにした、まさに釜山が舞台の小説である。中心にはその事件があるものの、主人公は釜山に家を借りて、日々散歩をし、美味しいものを食べ、コーヒーを飲み、色々考えたり、たまに現地の人たちと言葉を交わしたりする。彼女を中心に、釜山という街が描かれていく。
私はこの小説を読んだ時、これまで一緒に街を歩いてきた温さんと瀬尾さんのことを強く思い出した。彼女たちもまた、動機は異なれど、街を歩き、歴史を知り、人々と交流しながら「場所」を描いていく作家たちだからだ。
そこで、私はこの偶然に感謝しつつ、東京、台北、釜山を舞台にしたプロジェクトをやってみたいと考えた。パクさんは東京、温さんは台北、瀬尾さんは釜山。みんなそこで育ったわけではない(ただし、温さんは3歳まで台北で過ごしている)。それでも、彼女たちが偶然にも40歳前後であり、とりわけ台湾と韓国が同じ1979年に戒厳令の解除と民主化を勝ち取り、そこから急激に都市化が発展し、風景が激変していった歴史と彼女たちが生きてきた時間が重なることは、とても大事な共通点のように思われた。
当然ながら日本と台湾、韓国は、隣国同士として、また、戦争時に日本が統治していたこから濃密な関係がある。なかでも、東京、台北、釜山という3都市は、海辺に面していて、現在も、そして歴史的にも重要な玄関口である。
海を介したこの3つの土地を、作家たちが紡ぐ物語がつないでくれたら。
そんな想いを込めて、「歩く風景」を立ち上げることにした。
台北
温さんは、かれこれ10年来の友人である。コロナ禍の2020年、初めて自分自身のアートプロジェクトを立ち上げたいと考えたとき、真っ先に参加してもらいたいと思ったのが、彼女だった。私が説明するまでもなく、温さんは小説家として、時にそれ以上に、彼女の特異な出自――今となっては、それほど特異とも言えないわけだが、出身地の言語と異なる言葉で物語を紡ぐ人として――がとりわけメディアに取り上げられることが多い。私は自分自身が海外で育った経験も、留学経験もないのに、どこか日本が外国のように感じられることが多くて、きっとその感覚は温さんや近しい出自の人たちとは違うのだろうが、勝手に共感を覚えるところが大きかった。一方、彼女が抱えるもどかしさ、アイデンティティの置きどころといった問題は、私には計り知れない大きいものとしてあることも会話の中で実感することができた。
そんな温さんから繰り返し聞いてきた自身の記憶。もちろん、小説やエッセイを通じて知ったことも多い。そして、「住むの風景」では、彼女が作品では多く語ることのない、自分が育った東京での経験や記憶を、まさに「歩きながら」たくさん聞いてきた。同世代でもあるから、そこには「あるある」「わかる」といった共感もあれば、育った地が微妙に違うことによる、知られざる東京の側面も多かった。温さんがまず行きたいと言った東京モノレール沿いや水天宮は、「空港」と強く結びつく場所だったし、幼少期にそこまで飛行機に乗って行き来をしなかった自分としては、それは意外な街の記憶だった。
東京、しかも、彼女が長い時間を過ごした恵比寿を一緒に歩いた時の、彼女の恥ずかしそうな様子が今でも忘れられない。「特筆すべき思い出なんてないよ」「これっていうものもない」そう言いながらも、まったく知らない恵比寿の細道や、ガーデンプレイスの奥の方のエレベーターとか、ピーコックの2階とか、もじもじしながら教えてくれる温さんが、とても愛らしかったし、興味深かった。
では、多くの彼女の作品に登場する「台北」はどうなのだろう? この機会を得て、一緒に台北に行けることは、本当に楽しみだった。しかも、温さんの友人で台湾の大学で研究をしている服部美貴さんが、2回もワークショップを企画してくださっている。海外で、外国人と家庭を築いた日本人の人たちが主な対象である。言葉の問題、子育ての問題、家族との関係、仕事のこと……。有意義にならないはずがない。
そして、私が台北に到着したその日。温さんは事前に家族と台北に渡っていた。日本統治時代の建物で、今もホールになっている場所のカフェが素敵なのだと教えてもらい、待ち合わせた。台湾で会えたことがうれしかった瞬間、温さんは恵比寿を案内してくれた時のような、不思議な照れくささで、迎え入れてくれた。台湾では、日本統治時代の建物は、その悲しい歴史はあるものの、一方で重要な遺物としても認識されているらしく、積極的に残す動きがあるようだ。むしろ現代の若者としては、レトロな良さとしてすら認識されているようで、教えてくれたカフェも、1時間以上待つことになるだろうと言われてしまった。温さんが中国語で店員に聞いてくれる。私は一切中国語がわからない。それでも、なぜか温さんは照れたように、ダメみたい、と教えてくれる。なんだか恵比寿での記憶が蘇る。
温さんは、日本で「あなたは本当に特別」と言われてきたことを振り切るように、恵比寿でも、台北でも、「ここは特別なんかじゃない」と照れながら説明してくれているようなのだ。
翌日、1回目のワークショップである、服部美貴さん主催の温さんの作品を読んで感想を語る会が開催された。多くの参加者が、外国で今まさに子育てをしている(主には日本人の)母親で、温さんの小説に大いに共感している方が多かった。温さんの視点はむしろ彼らにとっては「子」の視点になるわけで、その意味でもいずれ自身の子がこのような問題に直面するのでは?今どうやって接すればいいか?などなど、グループディスカッションも、まったくい話足りない!というほど盛り上がった。その場では、温さんが日本で「本当に特別」と言われてきた立場の方が当たり前だった。私はむしろ、日本で日本人の両親に育てられたマイノリティの一人だった。
温さんが生き生きと彼女たちと話している様子を見て、「普通」という言葉に敏感な温さんがどこか安心しているようで、勝手に私もうれしくなる感覚があった。よく考えれば当たり前のことなのだが、温さんの立場は特別ではない。世界中を見渡せば、よくある話だ。それでも、日本では、とりわけ、「物を書く」人として、その部分がフィーチャーされてしまう。「普通ではない」と言われ続けてきた彼女が、「ここには何もないんだよ」と言い続ける、その理由の一端を勝手に感じてしまった気がした。