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住むの風景

歩く風景

20260310

2025年8月15日を韓国で過ごしたメモ

朝岡英輔

2025年8月15日を韓国で過ごしたメモ

© Eisuke Asaoka

白羊寺から光州へ

その前日、私は「歩く風景」とは別の取材を入れていて、ある山寺に宿泊した。その山寺は、釜山から西の光州まで高速バスで三時間、光州から北へ更にバスで一時間ほど行ったところにあった。曹渓宗という禅仏教は日本では馴染みがないが、韓国での仏教寺院の九割を占める宗派だそうだ。取材を終えて一夜明け、朝4時半のおつとめに参加した。二十人くらいのお坊さんたちの脇に集まったテンプルステイの参加者たちと一緒に座り、壁に大きく緻密に描かれた曼荼羅を見ながら読経を聴き、拝礼していたら、曼荼羅に描かれた沢山の人だか仏だかが、過去の死者たちに見えてきた。先祖や死者を悼む、というところからこうしたものは生まれたのかなと、ぼんやり考える。
まだ暗い中を歩いていると、お寺の鐘の横に魚の形の灯りが吊るされているのを見つけた。紙のハリボテで中に火が点っている。修行を怠ると、魚になってしまうという教えがあるそうで、それを教えてくれた尼の方に「あの魚はミョンテですか」と訊くと、まさかといった表情で「違います。聖なる魚です」と返ってきた。韓国では干しスケトウダラ(ミョンテ、明太)のお守りが厄除けとして用いられ、シャーマンの儀式などでもミョンテは使われるらしく、韓国では縁が深い魚と聞いていた。別の日にはミョンテ加工会社の社長の方にも数時間に渡るミョンテの歴史をレクチャーしていただいたりした事もあり、何でもミョンテに見える。山寺の近くの土産物屋でも魚を吊るした形のキーホルダーが売っていたが、尼の方の話だとこれもミョンテではなく聖なる魚という事になるのだろう。

瀬尾夏美さんに教えてもらったのだが、明恵上人の夢にも魚が出てくるという。明恵は日本の鎌倉時代、華厳宗の僧で、19歳から59歳で亡くなるまで夢日記をつけていた。ある夢で、明恵は眼のついた小石を拾う。魚が陸にあげられた時のようにぴちぴちと動くのを、先生に見せに行く。先生、これは石眼という名前です。そこでは天井から腐って干からびた魚が吊るされており、その片目も干からびて飛び出しているが少し動いている。それを女房が降ろしてみると魚は鹿くらいの大きさの生き物で、四本足で、背中にはたくさんの穴が空けられている。「わたしは妊娠しているのに、こんなものに手をかけてしまって、あってはならない事だ」と女房は言う。明恵はこれが姪だと思う。同情していると生き物は、ただ元のように釣りかけてくださいと言う。苦痛そうな様子だったので、言う通りに釣りかけてやった。この生き物の片手は切れてしまって、片目は干からびていた…。明恵はそこに登場する先生を釈迦、女房を文殊、生き物を覚母だと自己分析している。調べると文殊と覚母は同じものらしく、よくわからないのだが、修行を怠った何者かではなさそうだ。お寺で見たハリボテは、天井から下がっていて乾いていたから、なんとなく話に出てくる生き物と似ている気がした。周りの砂利を探せば、ぴちぴちと跳ねる目の付いた石もあったかもしれない。

菜食の朝ご飯をいただいてから、釜山へ向けて発った。天気は良かったが時折霧が出て、いっとき曇った。山寺から光州へ向かうバスでは、軍服の青年たちが帰省するのか何人か乗ってきては降りていった。長城という鉄道駅の前には従軍慰安婦像があったが、駅前広場に人気はなく静かで、タクシー運転手たちが暇そうに客待ちをしていた。

光州から釜山への高速バスで

2025年8月15日を韓国で過ごしたメモ

© Eisuke Asaoka

2025年8月15日は、戦後80年の終戦記念日だ。私は1980年生まれなので、太平洋戦争の記憶はない。家族からも、戦争の話を聞いた事はないし、育った埼玉や東京の街にも影は残っていない。従って、子どもの頃から毎年の終戦記念日に「神妙な気持ちにならなければいけない」という道徳的な圧だけを勝手に感じて「そうした顔」をしている自分に、なんだか嘘くさく、良い子ぶっているようなものも薄ら感じていた。一応、その時は真面目に色々な想像を巡らせようとしてみるが、何を考えていいのかわからないのでリアリティがなく、浮かんでくるイメージはいつも貧困だった。
大人になり、よほど「あの戦争」について知っている事は増えた気がするが、実感がないのはあまり変わらない。だからこそというか、国際情勢がどんどんと暗くなり、日本国内でも好戦的な言説が出てきている昨今、80年という節目は今一度何かを考えるきっかけとしては悪くないかもしれないと思っていた。正午過ぎ、スマホを開いて日本の式典の中継を見た。ゆれるスマホ画面の中に、石破茂首相や天皇陛下ご夫妻が映る。私は韓国に滞在していて、光州から釜山へと向かう高速バスの中だった。

目線を上げると、車内では乗客の人々が、思い思いに過ごしているのが目に入る。私の隣の席の青年は口を開けて寝ていて、その前の少年はスマホでドラマなど見ている。光復節(=終戦記念日)にまつわるものを見たり気にしている人は、いないようだった。なんだか自分がまた、自意識過剰な人間であるような気がした。自分はちゃんと大切な事を忘れず、考え、気にしているんだぞと、誰かわからない誰かに主張して褒めてもらいたがってでもいるような。

日本では、韓国との関係では太平洋戦争時代の事がよく話題になるが、韓国では今も終わっていない朝鮮戦争の記憶の方がよほど鮮烈で、日本で「あの戦争」というと太平洋戦争だが、韓国で「あの戦争」という時はたいてい朝鮮戦争の事だった。この当たり前の事がなんで日本にいると実感できないのか?と自問する。これもなんだか一種の自意識過剰なのではないか、といった事も思った。例えるなら、隣人が家にやってきて「ここれはおれたちの家だよな、同じ家族だよな」と言われたのが日韓併合だとすれば、隣人が出て行ったあと、元から住んでいた家族同士で殺し合いの喧嘩をしたのが朝鮮戦争で、その家族は未だに同じ家の別々の部屋に暮らし、その間の扉にはバリケードが築かれたまま70年以上も経ってしまった…。隣人への暗い恨みもあろうが、それ以上に分裂したままの家族の方が問題なのは言うまでもない。(雑すぎる例えなのは承知しています、すみません。)
これは当然ながら太平洋戦争時代が良かったという事を意味しない。ただ朝鮮戦争がより喫緊な出来事だという事だ。

とはいえ、朝鮮戦争の休戦が1953年。そこからも72年経っている。私が太平洋戦争にリアリティを感じづらいのと似たような感覚が、もしかしたら韓国の人にもあるのかもしれない。私が釜山で出会った人々には、前向きな人がとても多かった。

2025年8月15日を韓国で過ごしたメモ

© Eisuke Asaoka

瀬尾さんから事前に送られていた、光復節前夜祭の動画を遅れて視聴する。昨夜ライブ配信されたものだ。冒頭、アメージング・グレイスの独唱(歌詞は、韓国への愛を歌うものになっている)を背景に、金九を中心にした多数の顔写真がコラージュされた画面になる。抗日独立運動の闘士たちだと思われる。画面はライブ会場に移り、どこかの広場に集まった聴衆がペンライトを振っている。歌手たちは若い。金髪の女性歌手と男性ラッパーが歌うバラードが、エモーショナルな良い曲で、素晴らしい歌声だったので調べてみた。
サビの歌詞は

대한이 살았다
大韓が生きた

だった。
また別のノリのいいパンクバンドの曲がどこか懐かしく良い感じだったので、これも曲名と歌詞を調べる。

독립군가 独立軍歌 / 크라잉넛 (CRYING NUT)

新大韓民国独立軍の百万勇士よ
祖国の呼びかけをお前は知っているか
三千里三千万の私たちの同胞
建てるのはあなたと私だ

なかなかに、日本で同種の曲はあまり聴けないな、という歌詞たちだ。
日本では、日の丸を振っている聴衆とともに愛国的な歌を合唱するフェスなんていうのは、ちょっと想像がつかない。フェスには人気歌手の10CMなども出演していた。
韓国が特別ナショナリズムが強いというよりは、日本でナショナリズムがタブー視されているっていう事なんだろうと思うけど、新鮮だった。
バスは洛東江(ナクトンガン)を越えて釜山に入った。
参考:光復節前夜祭の映像 

臨時首都記念館と碑石文化村

2025年8月15日を韓国で過ごしたメモ

© Eisuke Asaoka

釜山の土城という駅から小高い斜面を昇ったところにある、臨時首都記念館に向かう。この辺りは地域猫が多いみたいで、道端に餌をやる仕掛けなんかがあったりする。食事をしたカフェのベランダにも餌場があり、猫がいた。日本でも猫グッズが溢れているが、釜山ではそれ以上にたくさんのグッズを見かけた。愛されている。
瀬尾さんと「歩く風景」主宰の柴原聡子さん、そして案内をしてくれるシンさんと合流する。釜山は朝鮮戦争時の1,023日間、韓国の臨時首都だったところだ。臨時首都記念館は日韓併合時に知事庁舎として建てられたレンガ造りの建物だが、朝鮮戦争時は李承晩(イ・スンマン)大統領の居住地だった。しかしそこは工事中で見れなかったので、その隣の資料館を訪問した。(そこは検事長官舎だったところだそうだ。)学生たちが社会科見学で訪れていて、賑やかだった。

一時は釜山や大邱を除いた地域が北朝鮮軍に占領されるくらいまで戦線が南下し、大量の難民が釜山に押し寄せた。そうした人々が山の上の土地に住み、家が必要になったが、資材がない。それで仕方なく日韓併合時に建てられた墓地の墓石を使って家の基礎を造り、その上に家を建てたという。それが峨嵋洞碑石文化村として今も残っており、観光地化している。こちらも皆で訪れた。

これがそうかな、というものがたくさん残っているが、多くは文字も消えている。丘の急な斜面に家が密集していて、今も人々が暮らしている。狭い路地は、行けども行けども続いていた。海は、少し遠く見えた。

2025年8月15日を韓国で過ごしたメモ

© Eisuke Asaoka

大邱

2025年8月15日を韓国で過ごしたメモ

© Eisuke Asaoka

光復節の催しがあれば見学したいと話していたが、どうにも情報が見つからない。色々探してみると、どうやら大邱でイベントがあるらしいと聞きつけ、シンさんと別れ西山さんと合流し高速鉄道KTXで大邱へと向かった。西山さんは学生で、瀬尾さんのお手伝いをしている。日は沈もうとしていた。
たどり着いた西門市場でのイベントは、商店街のお祭りのようなもので、抗日の歴史が云々といった厳めしい雰囲気は微塵もなく、のんびりしたものだった。小さなステージがあり、地元の若者たちがMaroon 5の「This Love」を演奏していた。縁日のお店を覗きつつ、スイカを買って食べ歩いた。

大邱には抗日ロードでもというような、抗日運動の跡をたどる路地がある。
その路地を抜けると、小高い丘の上に抗日運動の拠点でもあった大邱第一教会があり、その麓には桂山教会がある。大邱第一教会はプロテスタントで、人が集まっていたので入ってみると、音楽演奏がされていた。外観は大きく立派だが教会内は木造のシンプルな造りで天井が高く、教会というよりはホールに近い。壇上ではスーツを来てアコースティックギターを持った男性シンガーを中心にバンドが演奏している。ハレルヤアーメン、と、ポップスのようなアレンジとBPMで歌っていて、覚えやすいメロディーだったので集まっている人たちと一緒に歌った。イ・チャンドン監督の映画「シークレット・サンシャイン」の舞台が密陽という街で、大邱と釜山の間あたりにあるが、この映画は宗教がひとつのテーマになっていて、そこで登場する教会の風景を思い出した。余談だがイ監督の映画には、よく祈るシーンが出てくる。「オアシス」という映画では、ならず者の主人公が牧師と道端でお祈りをしている(させられている)最中、ひとり目を開けて空を見上げていたり、また警察署のシーンでは祈りの最中に飛び出して逃げたりする。韓国ではキリスト教が26.2%(プロテスタント18.7%、カトリック7.5%)、仏教が14.7%らしい(2015年データ)。日本は、神道・仏教がいずれも50%近く、キリスト教は1%程度だから、韓国では日本よりもキリスト教、特にプロテスタントが日常に近いところにあるのだろうと思う。
去り際、スーツを来た教会の方に話しかけられた。私は日本にもいたんですよ、と穏やかに笑顔を浮かべ、パンフレットをくれた。

桂山教会はカトリックだ。第一教会よりもこじんまりしているが、堂内にはアーチ状の天井の下、まっすぐに祭壇まで通路が伸びその左右に席が並んでいて、いわゆる教会然とした造りだった。堂内ではやはり集会が行われていたがそこには入らず、周りを歩くと美しいステンドグラスが目に留まった。私が通っていた幼稚園はカトリックだった。通っていただけで、特に今は信仰はないが、そこではキリストの物語を影絵で描くアニメーションを観たり、紙粘土でロザリオを作ったり、ステンドグラスがあったりしたから、少し懐かしい気分になった。そういえば、母も趣味でステンドグラスを作ったりしている時期があったが、これは信仰とは関係がない。
どちらの教会でも、抗日運動を叫ぶ活動家のような方々には、ついぞ出会わず、親切な方々ばかりだった。近くのお店で皆で焼肉を食べたあと、終電にかけこみ、釜山へと戻った。